後藤象二郎
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■ 後藤象二郎(ごとうしょうじろう)【出典

・ 1838−1897年。享年60歳(病死)。

・ 出身地: 土佐国。

・ 肩書き: 土佐藩士、政治家。

・ 後藤象二郎は、土佐藩士の長男として生まれた。義理の叔父の吉田東洋の私塾で学び、藩に出仕するが、東洋が武市半平太に暗殺されて失脚。後藤は江戸の開成所で、蘭学、航海術、英学を学んだ。後藤は、その後前藩主の山内豊信に呼び戻されて再び藩政に参加した。公武合体派として武市らの土佐勤王党を弾圧したが、やがて尊皇攘夷派に転向した。後藤は、坂本龍馬と土佐藩船の夕顔丸で会談、龍馬からの大政奉還の提案(船中八策)を山内豊信に奏上した。明治政府では、大阪府知事や参議、工部大輔などを努めたが、征韓論争で敗れて下野した。その後、板垣退助と自由党を結成して副党首になり、自由民権運動の中心として活躍した。 


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