「鵜殿」の名字の由来
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■ 鵜殿(うどの)

【2023/05/22:改編】

# 三河国宝飯郡の国衆。紀伊国牟婁郡鵜殿村(和歌山県南牟婁郡紀宝町鵜殿)の出で、熊野別当湛増の末裔とも秦氏の出ともいい、寛政譜では、藤原氏師尹流と秦氏に分かれて掲載されている。長善が熊野領であった三河国竹谷・蒲形荘(愛知県蒲郡市)の荘官として転じたという。長善の子の代に上ノ郷・下ノ郷・不相の三家に分かれた。長将のときに今川氏に従い、長持は今川氏親の娘を娶って今川氏の三河支配の要として全盛期を迎えた。桶狭間の合戦後に、長照は今川氏から離れた徳川家康と戦い、永禄5年(1562年)に上ノ郷城が落ち、長照も討ち死にした。長照の弟の長忠は家康に仕えて鵜殿氏を継ぎ、柏原城(愛知県蒲郡市)城主になった。江戸時代には鳥取藩家老になった。【出典

# 静岡県の鵜殿家

# 鳥取県の鵜殿家

# 鵜殿長照(うどのながてる): 丸に三つ石紋。三河国の上ノ郷城主で、今川氏の家臣の一人。桶狭間の合戦の以前から、大高城代に任命されて、窮地に立たされていた長照を救うために、今川義元は尾張攻めを開始した。松平元康(後の徳川家康)の援軍によって危機を脱した長照は、桶狭間で義元が討たれたことを知って、元康より先に三河国に逃げ帰った。その後、1562年に織田方に与した家康と戦って戦死した。【出典

# 今の和歌山県新宮市の明神山城遺址は、中世鵜殿氏の居館だった。鵜殿氏は紀伊国の豪族だが、出自は穂積姓鈴木氏、熊野別当氏族、秦姓長曽我氏族などと言われる。三河国宝飯郡にも鵜殿氏が多く、熊野別当氏族の移住したところともいうが、後世徳川家旗本家が出た。代表家紋は「石畳紋」「蔦紋」。【出典】【家紋のデータ

# 国衆

# 「鵜」のつく名字

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