「一部」の名字の由来
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■ 一部(いちぶ、いちべ)

【2023/04/19:改編】

# 一部(いちぶ): 出羽国秋田郡の国衆桓武平氏長尾氏末裔という。太平城主の太平氏の一族が一部氏を称し、のちに太平城(秋田市)城主になった。戦国時代の安東(秋田)愛季の家臣に太平領主として一部式部の名がみえる。天正17年(1589年)の湊合戦で敗れて滅亡した。末裔は秋田家家老の梅津家の家臣になった。【出典

# 秋田県の一部家: 久保田(秋田)藩家老の梅津家の家臣。大平家の一族で、桓武平氏長尾氏庶流という。後に、秋田家に破れて没落した。【出典

・ 大平城(秋田県秋田市)城主の大平家の一族で、後に大平城主となる。桓武平氏長尾家庶流を称す。後に、秋田家に敗れて没落した。【出典】   

・ 一部(いちべ): 嵯峨源氏渡辺氏族。肥前国北杉浦郡一部浦発祥。【出典

# 出羽国秋田郡の国人桓武平氏長尾氏末裔という。太平城主の太平氏の一族が一部氏を称し、のちに太平城(秋田県秋田市)城主になった。戦国時代の安東(秋田)愛季の家臣に太平領主として一部式部がいた。天正17年(1589年)の湊合戦で敗れて滅亡した。末裔は秋田藩家老の梅津家の家臣になった。【出典

# 肥前国松浦郡生月島の国人。生月島一部(長崎県平戸市生月島壱部)発祥。嵯峨源氏の松浦氏の一族で、松浦氏に仕えた。天文11年(1542年)に一部大和守は松浦隆信に従って飯盛城を攻めた。大和守のあとは、松浦隆信の弟の信賢が養子になっていたが、弘治3年(1557年)に死去したため、籠手田安経の弟の勘解由が一部氏を継いだ。勘解由はキリスト教に入信、砲術にたけていた。その子の正治は慶長4年(1599年)の松浦鎮信によるキリスト教弾圧で生月島を追放された。【出典

# 参考: 「いちべ」の名字

# 「数・数字」のつく名字

# 「部」のつく名字

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