大岡家
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■ 大岡家(おおおかけ): 「大岡」の名字の由来

# 大岡家(三河国西大平藩

・ 大岡家は元々は相模国で500石を領する旗本だった。正徳2年(1712年)に大岡忠相は山田奉行(遠国奉行)についた。ここで、幕府領と紀州藩領の境界線問題を解決し、それを称賛した紀州藩主の徳川頼方(後の徳川吉宗)に認められ、吉宗が八代将軍になった後、忠相は普請奉行、町奉行と抜擢された。吉宗の享保の改革への尽力の功で、元文元年(1736年)に寺社奉行となった。さらに、寛延元年(1748年)には奏者番も兼任し1万石に加増されて三河国西大平藩を立藩した。幕末には新政府軍に従い、明治時代には子爵。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

# 大岡家(武蔵国岩槻藩

・ 大岡忠相の大岡家の遠縁。当初は300石の旗本だったが、大岡忠光が九代将軍家重の小姓から、御側御用取次となった。家重は言葉が不自由で、忠光だけが意思疎通できたことにより加増をうけ、宝暦元年(1751年)には上総国勝浦藩1万石になった。その後若年寄となり1万5千石、そして側用人となり武蔵国岩槻藩2万石となった。明治時代には子爵。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

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