榊原家
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■ 榊原家(さかきばらけ): 「榊原」の名字の由来

・ 徳川四天王の一人の榊原康政の祖父の清長が伊勢国から三河国壁海郡上野村(愛知県豊田市上郷町)に転じた。康政の家系は清和源氏仁木流を称する。

@ 上野村の七郎右衛門家
寛政譜」によると、「仁木義長が後胤、伊勢国壱志郡榊原の里に住す。のち三州にうつりて居住す・・・・・義長が六代の孫次郎七郎利長伊勢国壱志郡榊原村に住せしより、家号とす。清長は利長が三世孫なり」とある。仁木義長は足利家の支流とする南北朝時台の武士で、三河国加茂郡仁木村(愛知県岡崎市仁木町)を本拠とした。
榊原康政は1560年に家康に召し出されて側近となり、徳川家康の関東入国後に上野国館林10万石。康政の死後、三男の康勝が家督を継ぎ、長男の忠政は外祖父の大須賀松平康高の養子となった。その後、忠政の長男が榊原家に戻って家督を継ぎ、陸奥国白河藩から播磨国姫路藩15万石。その後越後国高田藩15万石。

A 羽栗村の孫七郎家
初代の経定は、はじめは伊勢国の国司の北畠家に属していたが、三河国額田郡山中郷に転じて松平親氏に仕えた。二代の利経の長男の元経の家系は忠次、忠政と継ぎ、三男の七郎右衛門清長の孫が康政という。四代の忠次の長男の忠直は、広忠、家康に仕え、三方原の合戦で戦死したため、次男の忠政が継いだ。徳川家康の関東入国後に相模国大住郡で2300石。

【出典: 徳川家臣団の謎  菊地浩之 角川選書】

■ 榊原政岑(まさみね): 播磨国姫路藩主。三味線や浄瑠璃や小唄など、遊芸に熱中した。万事派手好きで、登城するときの裃もたいそう目立った。政岑は藩主の榊原政邦の弟で、旗本の榊原勝治の子。十代の時は旗本の次男坊という自由さがなせる業か?吉原一の美女の高尾を見受けしたことで有名で、費用は千八百両。 正室が、結婚二年で死去。その後、女あさりをしたという。そのため、隠居謹慎を沙汰され、1742年に嫡男の政永が越後国高田に転封。

■ 榊原家: 
・ 清和源氏の足利氏の庶流の仁木義長5代の孫の利長が伊勢国に住んで家号とした。孫の清長が三河国に転じて松平氏に仕えた。【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】

■ 榊原家(越後国高田藩)
・ 榊原家の初代は榊原康政だが、祖父の代から松平家に仕えた。榊原康政は徳川四天王の一人で、徳川家康の関東入国後、上野国館林10万石。二代の康勝が若くして亡くなったので、家康は遠江国の横須賀藩の大須賀家から忠次を榊原家に入れて家督を継がせた。寛永20年に陸奥国の白河藩14万石へ。さらに、慶安2年に、播磨国の姫路藩15万石へ。その後、越後国の村上藩から再度姫路藩へ。しかし、榊原政岑の不行跡により越後国の高田藩へ。幕末の第二次長州征討では井伊家とともに幕府軍の先鋒をつとめたが、後に新政府軍に転じた。明治時代には子爵。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

■ 代表家紋

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