鳥居家
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■ 鳥居家(とりいけ): 「鳥居」の名字の由来

・ 「寛政譜」によると、鳥居家は「先祖は穂積氏にて、紀伊国熊野権現の臣農見大臣重高の苗裔鈴木某が末葉なり、世々神職の業を嗣。道権重氏が時にいたりて法眼に叙す。よりて、重氏、熊野山に一の鳥居を建、これを世人呼で鳥居法眼と称す。」とあるが、熊野の鳥居は付会という。

・ 鳥居元忠は家康の3歳年長で、家康が今川家の人質になった際には従者となった。桶狭間の合戦では馬廻りとして参戦した。本能寺の変後、家康が甲斐国信濃国を勢力下におくと、甲斐国の郡内(山梨県都留郡)を与えられ、また家康の関東入国では下総国矢作4万石を賜った。関ヶ原の合戦の前哨戦の伏見城の戦いでは、内藤家長、深溝松平家忠、大給松平近正らと伏見城をまもり討ち死にした。嫡子の左京亮忠政は1602年に陸奥国磐城平藩10万石。その後出羽国山形藩22万石。

・ 一説によると、伊達家の側に鳥居家、島津家の側に内藤家を配置。ともに、伏見城の戦いで討ち死にした両家を配置。

・ 忠政の子は病で錯乱して改易。その後、いろいろあって、能登国1万石、近江国水口藩2万石、下野国壬生藩3万石。

【出典: 徳川家臣団の謎  菊地浩之 角川選書】  

# 鳥居家(下野国壬生藩)

・ 鳥居忠吉が松平清康や広忠に使えた頃からの古参の譜代大名。忠吉の三男の鳥居元忠が鳥居家の初代とされ、駿府で人質生活を送った家康に従い、家康の関東入国後には下総国矢作4万石。関ヶ原の戦いの際、元忠は伏見城を守り、討ち死にした。二代忠政は陸奥国磐城平藩10万石。その後、最上家の改易の後をうけて、出羽国山形藩22万石。その後、跡継ぎがおらずに一時は改易されたが、信濃国高遠藩3万2百石で継承された。その後、不届きな所行でまた改易されたが、六代忠英が能登国下村藩1万石で復活。その後近江国水口藩2万石、下野国壬生藩3万石。幕末には新政府軍に属し、明治時代には子爵。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

# 鳥居家(甲斐国谷村藩)

・ 鳥居家の分家で、初代元忠の三男の成次が甲斐国谷村藩1万8千石を立藩。二代忠房は駿河大納言徳川忠長の付家老となった。しかし忠長の失脚と共に鳥居家も改易となった。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

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