上杉鷹山
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■ 上杉鷹山(号): 「上杉」の名字の由来

・ 上杉家

・ 1751年〜1822年

・ 諱: 勝興(かつはる)・治憲(はるのり)

・ 幼名: 松三郎・直松

・ 階位: 越前守

・ 天明の大飢饉を乗り越えて、財政破綻した米沢藩の財政再建を行った。当時の米沢藩は15万石。それに対して会津120万石時代の藩士を丸抱えして、その数五千家。人件費率は90%という。

# 江戸の藩主の年間費用1500両を廃し、世子のときの209両のままとした。日常の食事は一汁一菜、衣服は木綿、50人いた奥女中を9人に減らした。桑・楮(こうぞ)・漆をそれぞれ100万本植えさせた。

# 上杉鷹山(うえすぎようざん): 上杉鷹山は、「隗より始めよ」の言葉通り、自ら江戸藩邸で使う諸経費を年間1500両から、209両と大幅に減らした。また、経費節約のために50人いた奥女中を9人に減らすなど倹約に努めた。文政5年(1822年)に72歳で病没したが、その時点で借金はゼロとなっていた。【出典

# 「小説 上杉鷹山 童門冬二 集英社文庫」より
・ 池で寝ている金魚を起こしに米沢へ。いいな、いいな、この言葉。読み出したら止められなくなったよ。
・ 鷹山の側室のお豊って、10歳も年上なんだねぇ。鷹山も、他家から養子というが、一応上杉家の血を引いているんだねぇ。まぁ、小説だから史実と違うところもあるんでしょうが。
・ 米沢藩の500石船、新潟から材木をつんで出港。暴風雨で宗谷までながされた。米沢藩って海の無い藩だが、藩船をもっていたんだねぇ。
・ いやあ、面白い、というより感動する。この、鷹山の精神は現代でも通用する。今、鷹山公のお許しを得て、残り火を分けていただいて、我が心に灯す。さて、どこを開墾して、何を植えるかな。藩籍を棄てず農民と化する。

■ 上杉鷹山(うえすぎようざん)【出典

・ 1751−1822年。享年72歳(病死)。

・ 出身地: 日向国

・ 肩書き: 大名

・ 家族: 養父:上杉重定。

・ 家紋: 上杉笹紋

・ 日向国の高鍋藩主の次男だが、米沢藩主の上杉重定の養子になって、1767年に家督を継いだ。当時の藩財政は逼迫しており、現在の金額で200億円相当の借金があったという。藩祖の上杉景勝の時代からいた6000人の家臣団が減ること無く、所領だけが大幅に減らされた(30→15万石)ことなどが原因である。鷹山は、財政に明るい家臣を登用して殖産興業につとめた。帰農をすすめ、米以外の作物をつくることも奨励。自ら率先して質素倹約を行い、飢饉に備えて穀物の備蓄をすすめた。

※ 200億円: 当時の米沢藩の収支金額がわからないと、200億円の持つ意味がピンとこないなぁ。


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