酒井家の人々
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■ 酒井家の人々

# 「酒井」の名字の由来

■ 酒井忠清(さかいただきよ)

# 1653年に老中首座になり、1666年には大老になった。忠清の屋敷が江戸城の大手門の下馬札の前にあったので「下馬将軍」と呼ばれた。忠清は1624年に酒井雅楽頭家の酒井忠行の嫡男として生まれ、上野国厩橋(群馬県前橋市)10万石の藩主となった。

# 1624−1681。四代将軍徳川家綱老中大老前橋藩主。家綱を補佐して、実権を握って大手門下馬札付近に屋敷があったので、下馬将軍と言われた。しかし、五代将軍の徳川綱吉になると賄賂政治で罷免されて、屋敷も没収された。【出典

■ 酒井忠次(さかいただつぐ)出典

・ 1527−1596年。享年70歳(病死)。

・ 出身地: 三河国

・ 肩書き: 武将。

・ 家族: 父:酒井忠親。

・ 家紋: 丸に片喰紋

・ 松平家の家臣。酒井忠親(ただちか)の次男。徳川家康今川家の人質になって駿府に赴いたときからの家臣。桶狭間の戦い後、家康が今川家から解放されて以来、重臣として仕えた。以後は、姉川の合戦、三方原の合戦などに出陣した。1579年に家康の長男の松平信康が嫌疑をかけられた際に、信長に対して忠次は信康を弁護することができず、信康の自害をとめることができなかった。その後も徳川四天王の一人として活躍し、家康の関東入国では子の家次には下総国で3万石を賜った。

・ 酒井忠次(さかいただつぐ): 徳川四天王の一人。酒井家嫡子の家次は下総国碓井3万石から1604年に上野国高崎藩主、1617年には越後国高田藩主(10万石)。酒井忠次の家紋


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