水戸光圀
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■ 水戸光圀(通称): 「徳川」の名字の由来

・ 1628年〜1701年。
・ 神号: 高譲味道根之命(たかゆずるうましみちねのみこと)
・ 本名: 徳川光国・光圀
・ 俗称: 水戸黄門
・ 号: 西山隠士
・ 諡号: 義公
・ 階位: 従三位権中納言
・ 水戸藩の二代藩主。

・ 光圀は六歳の時に長兄を越えて水戸家の跡継ぎに指名された。若いときはかぶき者で、手のつけられない不良だった。光圀が編纂を開始した「大日本史」は明治39年に全402巻が完成し、明治天皇に献上された。

・ 水戸藩(25万石)の二代藩主。徳川家康の11男の頼房の三男。日本で初めてラーメンを食べたのは光圀という説がある。光圀が招いた師で、水戸学の基礎を作った中国人の儒学者の朱舜水が蓮根のデンプンをつなぎにして塩ハムのスープでしたてたラーメンだったという。 

# 水戸光圀は、若いときは文武両道を学び「才知発明」で「道をもって政道を行う」と高く評価されているが、世評では、「女色に耽ること、悪所へ通うこと、酒宴遊興が甚だしいこと、さらに自らの才智をひけらかし、僧侶や学者を試すこと」が欠点とされている。【松平家の謎 歴史読本編集部 新人物文庫】

# 黄門様は経済には疎かった。光圀が藩主になった翌年の1662年には田租が50%を突破。やがて53%まであがった。1690年に光圀は病気を理由に幕府から隠居を許されたとされるが、事実は、経済音痴で百姓が逃亡したため、幕府から隠居させられたとも言われる。【出典

# 徳川光圀(とくがわみつくに): 1628−1700年。水戸藩の二代藩主。「史記」の「伯夷殿(はくいでん)」に感動して、学問に目覚めた。34歳で水戸藩主になると、大義名分論による「大日本史」の編纂を本格化して、学者を集めて尊王意識の強い水戸学の基礎を築いた。水戸藩の水道整備や学問の奨励や文化財保護などを行ったが財政難で一揆が頻発した。水戸黄門として有名で、「黄門」とは中納言のこと。【出典


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