平成26年7月9・10日豪雨と地名
参考資料・文献 利用上の注意
名字と地名のMenu コラムのMenu
 地名と災害  地名の由来のTop

スポンサーリンク
スポンサーリンク

※ 台風8号がまだ九州にあった平成26年7月9・10日に、遠く離れた「山形県」や「長野県」で大きな被害が出、長野県では1名の死者が出ています。ここでは、被害が出た地域の地名を考えてみたいと思います。中には、「災害地名」も含まれているかもしれません。よく、「今まで経験ないような」という表現を耳にしますが、人間の人生は地球の活動に比べればほんのわずか、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」といいますから、私たちも先人が残した地名や歴史に学ぶとしましょう。

★ 長野県編

■ 平成26年7月9日夕方に発生した長野県木曽郡南木曽(なぎそ)町読書(よみかき)にある梨子(なし)沢(梨子川)で発生した土石流。住宅10棟以上が全半壊。国道19号線や中央本線にも大きな被害がでました。
・ 国土交通省によると、上流の二つの沢(大梨子沢・小梨子沢)の両方で同時に山崩れがおきた。
・ 梨子沢では1969年8月5日にも土石流が起き、8人が死亡、7人が重軽傷を負った。

# ところで、「南木曽町」。どうも「みなみきそまち」と読みそうだが、実際は「なぎそまち」。長野県でも一番人口の少ない「町」だそうで、約4500人で、土地のほとんどは山林だそうだ。おまけに木曽谷というように一帯は急峻な傾斜地が多い。おまけに地質も駒ケ岳を含め領家変成岩・石英斑岩や深部まで風化の進んだ花崗岩よりなり、断層も各所に見られ、崩壊土砂の生産が盛んと言われる。また雨の多い地域で、年間平均降水量は2,500mmにも達し、前述のように過去にも大きな災害を繰り返していたといわれる。それを表す土地の言葉に「蛇抜(じゃぬけ)」がある。
 蛇抜とは長野県木曽地方では「土砂崩れ」を意味する。このあたりは花崗岩質の土壌で降雨量も多く、深層まで風化して土に粘りが無く「蛇抜」がおきやすいという。地元では「白い雨が降ったり、長期間の降雨後に谷の水が急に止まったら抜ける。」「蛇抜の前にはきな臭いにおいがする」などと言われているそうです。
「蛇抜」の地名は他の地域にも存在し、愛知県には「蛇抜川(じゃぬけがわ)」という名前の川もあります。
 もちろん行政も手をこまねいていたわけでは無く、砂防ダムの整備も行ってきました。実際、今回崩落がおきた二つの沢にもあったらしいが、その能力を超える土砂の量だったということなんだろう。先の東日本大震災の時の防潮堤の件もそうですが、人間の想定をこえる自然現象がおきる、それが地球なのでしょう。
 ちなみに、長野県木曽郡上松町の木曽川水系滑川に平成元年に完成した滑川第一砂防ダムは、全国一の規模で10年は保つといわれたが、平成元年7月の豪雨で一夜にして埋まってしまったのだそうだ。

# 話はそれるが、「南木曽町」。私もこの名を聞くのは初めてだったが、「妻籠(つまご)宿」と言えば私も知っているし御存知の方も多いのではないでしょうか。そうです、その「妻籠宿」があるのが「南木曽町」なんですねぇ。「妻籠宿」は中山道の42番目の宿場町ですが、41番目の宿場町が「三留野(みどの)宿」で、今回災害がおきた地域のすぐ北側にあります。そして、土石流がおきた梨子沢にかかっている橋が「梨沢橋」、そしてもう一つ南側の沢にかかっている橋が「蛇抜橋(じゃぬけばし)」だそうです。このように、先人の「蛇抜」という土砂災害の記憶が橋の名前として残っているのである。
 またまた話はそれますが、今回の災害がおきた地域や町役場がある地名は、長野県木曽郡南木曽町読書(よみかき)と言います。「どくしょ」で無く、「よみかき」なんです。ちなみに、現在南木曾町立南木曾小学校になっているところは、かつては「読書(よみかき)小学校」と言われていましたが、平成19年4月1日に読書(よみかき)小学校と長野県木曽郡南木曽町田立の田立(ただち)小学校、長野県木曽郡南木曽町吾妻蘭の(あららぎ)小学校の三校が統合して南木曽小学校になったそうです。
 「三留野(みどの)」にしろ「読書(よみかき)」にしろ珍しい地名ですよねぇ。調べて見たらうちの資料にありました。【資料1】【資料2

【南木曾町の参考資料】

■ 木曽(きそ)
・ 古くは「岐蘇」「吉蘇」とも書いた。
・ 木曽の地名は長野県や岐阜県以外にもみられ、そちらは「木が生い茂っていることに由来する」とも言われる。
・ 地名の由来について「地名辞書」は、「木曽の名義は木麻にて、麻を古語曽と云へる例多し、今も麻を曽と云ふ方俗あり。此曽は元来麻草なれど、木曽と云へばシナノキ(菩提樹)の樹皮より造りたる糸、并に織布を指せる如し。即木曽は信濃(しなぬの)と同じく、樹皮に採りたる織糸に起因せる名歟」としている。【出典
と、している。つまり「信濃」の語源の一つと言われる「科(しな)の木」に由来するということですね。
・ 淡路島の中央部の郡家川の最上流域にあった「木曽村」は、内陸の傾斜地で樹木が多く、田畑が重なり合うことに由来するという。合併した檜原上村・檜原下村の檜原をもと檜曽原といい、これを「きそのはら」と訓んだことによるとする説もあるが不詳。【出典
・ 現在の長野県木曽郡は、昭和43年までは西筑摩郡と言われた。
# 木曽畑中(きそはたなか): 栃木県那須塩原市木曽畑中。地名は、木曽は樹木の繁茂した地にちなむといわれ、一説には木曽冠者義高の忍び隠れたことにちなむともいわれ、また畑中は平地に畑の開けたことによるといわれる。【出典

■ 長野県の蛇抜伝説
・ 災害多発地帯の「災害文化」に関する研究より
・ 蛇ぬけ(長野県木曽郡)。木祖村と奈川村の境の境峠に「新池」と呼ばれる小さな池がある。そこから数分奥の方に歩いて行くと、周りを木々に囲まれた湿地帯につく。この辺一帯は昔大きな池で村人は「古池」と呼んでいた。池には主として夫婦の蛇が棲んでいた。ある年、武者修行中の武士がここを通り、池の中に小柄を落してしまった。何年もの後、小柄の銅がさびて大蛇は体が腐りはじめた。そこで、この夫婦はこの池を抜けて海に出ようと決心した。ある年の夏、一ヶ月も大雨が続いて村中の川が氾濫し、泥土が押し流された夜、夫婦は決心を実行に移した。夫は北の土手を、妻は南の土手を一挙にくだり、海に向かった。二頭の大蛇の目はランランと輝き、村中に響きわたるうなり声をあげて通り抜けた。

■ 三留野(みどの): 長野県木曽郡南木曽町読書(よみかき)三留野(みどの)
・ 地名の由来については、古代木曽路開道の際、官舎が置かれたため、あるいは中世木曽氏の館があったため、はじめ御殿と書き、のちに表記を改めたなどと伝える。しかし、当地は年間平均降水量が2,500mmにも達する全国有数の多雨地帯であるところから、ミドノのミは水のことかとも考えられる。【出典

■ 読書(よみかき): 長野県木曽郡南木曽町読書(よみかき)。旧長野県西筑摩郡読書村。1874年に「与川村(かわむら)」「三留村(どのむら)」「柿其村(かきぞれむら)」が合併してできた。この三つの村の読みを合成し、「読書」の字をあてた。

■ 田立(ただち): 長野県木曽郡南木曽町田立。城ケ根山東麓、木曽谷の南部に位置し、木曽川の支流長谷川や大滝川によって形成された南東向きの緩斜面に民家が散在する。地名の由来は定かでないが、あるいは、緩斜面に階段状に田の拓かれている形状が、田が立っているように見えることによるか。田立は杣たちの基地として早くから開墾されたと考えられる。彼らの出自は伊勢と伝えるが、王滝(長野県木曽郡王滝村)からの移住との伝承もある。【出典

■ 蘭(あららぎ): 長野県木曽郡南木曽町吾妻蘭。木曽川の支流蘭川と同川に注ぐ額付川などによって形成された南木曽岳南麓の緩傾斜地に、民家が散在する。集落は、蘭と広瀬の2地区に大別される。このうち広瀬は戦国期にすでに地名が見えている。
蘭については、江戸初期に伊那郡浪合村蘭平の原彦左衛門の一党が、大挙して当地へ移住し、故郷の地名をそのままつけたものとの伝承がある。すでに先住者がいたが、原氏一党の勢力が大きく、江戸期を通じて原家が庄屋を勤めた。【出典

 さて最後に、今回の災害の中心となった梨子(なし)沢。どうも、植物の名がついていると災害地名だ!と先走ってしまうが、実際はどうなんだろう?調べて見たが南木曾町の梨子沢の資料は見あたらなかったので、他の地域の「梨」地名について書いておく。この中に類似のものはあるのだろうか?

■ 梨子(なしこ): 山梨県南巨摩郡身延町梨子(なしご)。地名は果実の梨にちなむとされ、隣接する中山にも梨の木田の小字名が残っているところから、この一帯が梨の産地ではなかったかと推定されている。【出典

■ 梨子木村(なしきむら): 江戸時代から明治時代初頭にかけて近江国(滋賀県)高島郡にあった村名。

■ 梨沢(なしざわ): 千葉県富津市梨沢。梨子沢とも書く。

■ 梨沢村(なしざわむら): 長野県北佐久郡御代田町豊昇梨沢?江戸時代から明治時代初頭にかけて信濃国佐久郡にみられた村名。梨子沢村とも書いた。浅間山の南麓、湯川の段丘上に位置する。四囲は断面に近い急傾斜地。地名の由来は、寿永元年柳沢・佐藤の2氏が山城国から善光寺参詣後当地に至り、梨の木を植え氏神に祀ったことによると伝える。

★ 山形県編

■ 平成26年7月9日から10日にかけての大雨で山形県の南部を中心に大きな被害がでました。その中には昨年の7月の豪雨に続いてまたという所もあるかもしれません。
 まずは、市内の中心部にも浸水があった南陽市ですが、 「山形県河川・砂防情報」の「浸水想定区域」を見ると、山形市では須川流域などの一部に限定されていますが、南陽市周辺をみると、南陽市から高畠町に至る広範囲が浸水想定区域に指定されています。
 そこで、南陽市のある「置賜(おきたま・おいたま)」についてまず考えてみましょう。置賜とは国が陸奥国に郡を配置した時の佳称で、「おきかわる」という意味。原意は「浮溜ま(うきたま)」で湿地のこと。「うきたむ」は日本書紀に出てくる、置賜の古地名。そうなんですねぇ、この「置賜」という地名そのものが「災害地名の匂いプンプン」といった所でしょうか。白竜湖なんかはその代表でしょうかねぇ。地盤が弱いので東北中央道の建設でも難儀しているらいいです。

 さて今回被害が大きかった地域の一つに南陽市内の「吉野川」流域や、「織機(おりはた)川」流域があります。南陽市内の自動車学校なんか、昨年の豪雨でもニュースに出ていましたが、今年も被害にあったそうです。昨年の教訓で、教習車両などはいち早く避難させたそうですが、食堂?の建物なんかは流れたそうです。今までは大きな問題がなかったから、そこに自動車学校を建てたんでしょうが、二年続いての被害となると、今後は検討しなければならないこともおおいのでしょうね。

■ 山形県内の主な災害

# 冠水(最上川): 大淀(おおよど): 山形県村山市大淀。村山地方、山形盆地北部、河島山付近の最上川屈曲点の右岸一帯の低地に位置する。地名は、最上川の流れが湾形となり淀んでいることによるという。【出典
※ 「大淀」なんて、まさに災害地名と言っても良いかもしれないですねぇ。

# 冠水・崩壊(吉野川): 萩(はぎ): 山形県南陽市萩。昨年流された南陽市金山の白山在家橋がまた崩れたそうです。そもそも「萩」という地名自体、「はがれる」を語源として災害地名の一つといわれ昨年の大雨でも、「萩地名」で被害にあったところがありました。
※ この場合の「在家」とは「在家信者」の「在家」では無く、「領主が年貢を賦課する時の単位」を意味する。中世、荘園・公領で、農民と耕地とを一体のものとして賦課の対象としたもの。東国や九州に多くみられる。

# 冠水・崩壊(織機川): フラワー長井線宮内〜おりはた間の「おりはた橋梁(りょう)」の土台が織機(おりはた)川の濁流で削られフラワー長井線の橋脚も一部破損。
・ 池黒(いけぐろ): 山形県南陽市池黒。古くは生黒とも書いた。置賜(おきたま)地方、米沢盆地の北部、織機(おりはた)川の左岸に位置する。織機川が平野部に幾筋かの川跡や池を残していたので池川村と呼ばれていたが、池の1つから源義経の乗馬となった黒馬が誕生したことにより池黒村に改めたと伝えられる。【出典
・ 漆山(うるしやま): 山形県南陽市漆山。置賜地方、米沢盆地の北部、織機(おりはた)川の右岸に位置する。地名は、漆木が繁茂していたことによるといわれる。【出典
 南陽市漆山地区には、鶴の恩返しの伝説が残っており、漆山には「鶴巻田」「羽村」「織機川」などの伝説にちなむ地名が残されている。

【南陽市の参考資料】

南陽市鶴巻田の資料が無いので、尾花沢市の同名の地名をみる。
# 鶴巻田(つるまきた): 山形県尾花沢市鶴巻田。村山地方、尾花沢(おばなざわ)盆地東部、丹生(にう)川左岸に位置する。「つる」は水流あるいは水路のある低地の意。丹生川河段丘と玉野原台地の境目の湧き水が水路を形成しており、地名はこの地形に由来するという。【出典
・ 「鶴の恩返し」由来といわれればそれまでだし、「水流」由来といわれればそれまでだし、詳細は不明。

# 羽付(はねつき):山形県南陽市羽付(はねつき)。羽根付とも書く。置賜(おきたま)地方、米沢盆地の北部、織機(おりはた)川右岸に位置する。村名に関しては、次のような伝承がある。むかし白と黒の2羽の鷹が飛来し、一羽は羽黒に、もう一羽は羽付の山に降りたが、その白鷹の羽の色は満月の光のようなので、村人がこれを崇めて羽月邑とした。のちに月の御名を恐れて羽付村と改めたという。【出典
・ これも「鶴の恩返し」由来といわれればそれまでだが、文献的には「鷹の羽」由来か?

※ これをみると、とりたてて「鶴の恩返し」にちなむとも思えないしなぁ。


「蛇抜」といういわゆる災害地名だが、長野県や岐阜県や愛知県だけに見られるものかと思っていたら、安芸国(広島県)佐伯郡にあった古江村に関する資料に、「蛇抜出しと呼んだ山崩れの跡が多い」という記載があることから、この地方でも使われていたようだ。

統計表示