宮家の名前と地名
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※ 「宮家」や「公家」の「名前」は地名からとったものが多い。ここでは、現在ある「宮家」の名前と地名との関連を調べて見ました。

■ 常陸宮(ひたちのみや): 常陸国に由来する。

■ 秩父宮(ちちぶのみや): 武蔵国秩父郡(地方)に由来する。

■ 三笠宮(みかさのみや): 
・ 三笠(みかさ): 奈良県磯城郡田原本町三笠。奈良盆地中央部に位置する。もとは田原本町下之庄。地名の由来は、当地より三笠山(若草山)が望見できることによる。【出典
・ 三笠山(みかさやま): 「歌枕」では「御蓋山」「御笠山」とも書く。奈良市東部、春日(かすが)大社の東にある山。東側の花山・芳山(はやま)などとともに春日山と総称される。和歌では「御笠(みかさ)」にかけて用いられ、「月」「雨」「影」などを詠み込んだものが多い。【出典

■ 高円宮(たかまどのみや): 
・ 高円山(たかまどやま): 奈良市白毫寺町の東方にある山。標高432.2m。「大和志料」には「白毫寺ノ上方ニアリ故ニ白毫寺山トモ称ス」、「大和名所図会」には「三笠山の南にならびたる山なり」と記されている。当山は古くから数多く歌に詠まれており、「猟高の高円山を高みかも出てくる月の遅く照るらむ」「ますらをの高円山に追めたれば里に下り来るむささびそこれ」など、高円山の題材として桜・黄葉・野火・月・むささびなどが詠み込まれている。ほかに「高円」「高円の野」など「万葉集」では、30首以上に及ぶ。「新古今集」「続後撰和歌集」「玉葉和歌集」「続千載和歌集」「新拾遺和歌集」などにも見える。【出典

■ 秋篠宮(あきしののみや): 
・ 秋篠(あきしの): 奈良県奈良市
・ 秋篠里: 平安期に見える条里の里名。添下郡のうち。東京大学文学部所蔵京北条里班田図(日本荘園絵図聚影)に見える京北2条5里および3条5里の呼称。添下郡北部一帯は古くより土師氏が土着し、平城京遷都とともにその勢力は躍進した。延暦元年土師宿禰安人ら兄弟男女6人が土師の氏名を改め、秋篠宿禰となり(続紀延暦元年5月癸卯条)、やがて同9年12月に秋篠宿禰安人らが朝臣の姓を賜った(同前延暦9年12月辛酉条)。「姓氏録」右京神別下には「秋篠朝臣」が見え、土師宿禰と同祖で、野見宿禰後裔を称する。ちなみに垂仁天皇皇后日葉酢媛命は、秋篠の近くにある「狭木の寺間の陵」(古事記垂仁段)に埋葬されているが、命が薨じた時、君王の陵墓に生人を埋めるのは好ましくないという野見宿禰の進言に従い、出雲国の土部100人により人や馬などにかたどった埴輪を作らせ、皇后の墓に立てた。以後野見宿禰は土部の職に任じられ、土部は天皇の喪葬を掌ることになったと伝承される(垂仁紀32年7月己卯条)。土部氏はやがて居地の名により菅原氏・秋篠氏を称するようになり(続紀天応元年6月壬子条・令集解喪葬令三位以上条跡記)、当地の開発を進めたと考えられる。「京北条里班田図」によると、当里は秋篠寺田が最も多く、2条5里5〜7・18坪と3条5里1〜5・10〜14坪を占める。おそらく、宝亀11年の秋篠寺創建(続紀宝亀11年6月戊戌条)に伴い秋篠氏の開発地が寄進されたものであろう。その他、2条5里8坪神願寺田、10・11坪西大寺田となっている。同図の秋篠寺田を見ると、2条3里、3条3〜5里に集中している。現在の秋篠寺の位置は同図の2条2里南部から2条1里北部にあたるが、その位置には内教寺が書かれている。また同図が西大寺所蔵であるところから、中世における秋篠寺と西大寺との寺領争いに使用され、内容が改ざんされたとする説もある。現在の奈良市押熊町北部より京都府相楽郡精華町南部一帯にかけての地域。「新古今集」巻6冬歌に「あきしのやと山の里や時雨るらんいこまのたけに雲のかかれる」【出典
・ 「あき」は「よく繁った」、「しの」は「小笹」のこと。【出典
・ 「あき(秋)」+「し(あきの語彙を強調する語)」+「の(野)」で、「秋+野」のこと。「あき」は「あきつ(圷)」で、河川流域の肥沃な土地(野)を示す古語。【奈良の地名由来辞典 池田末則 東京堂出版】
・ 秋篠(あきしの): 「あきしの」とは、湿地をあらわす「あく(芥)」と「しの」を重ねた「あくしの」から転じた。【出典

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