逆説の日本史
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■ 逆説の日本史 井沢元彦著 小学館

■ 逆説の日本史 1 古代黎明編 - 封印された[倭]の謎 より

# 「当たり前のことは、誰も気にとめなくなる」。

※ これは「社会的現象」に当てはまるし「個人的現象」にも当てはまることですね。簡単に言えば「慣れ」ですねぇ。と同時に、「当たり前の事は記録しない」。従って、「記録にないからといって存在しなかった」ということにはならない。

※ 現在の常識が100年後にも常識であるとは限らない。とすれば、現在説明しなくても万人がわかることが、100年後に皆に理解されるとは限らない。従って、現在において常識だから特に書き留めることは無いと思っても、記録しておくことが必要。 逆に言えば、昔の事象で記録に残っていないことは、それが事実ではないのでは無く、当時の常識で特に書き残すことでは無いと考えられていた事なのかもしれない。

# 信長と地名の関係

・ 著者は、「当たり前のことで、だれも気にとめないこと」の一つとして、この「信長と地名の関係」をあげている。

・ 支配者が変われば地名も変わる: 美濃国稲葉山城を陥落させた後、「井の口」という地名を「岐阜」に変えた。明治維新に「江戸」が「東京」に変わったように。

・ 著者によれば、この当たり前の事(勝者が地名を変える)を日本で初めて行ったのは、古代を除いて「おそらく、信長」としている。

羽柴秀吉は、近江国今浜を長浜と変えた。

蒲生氏郷は、伊勢国四五百(よいほ)を松坂と変えた。

蒲生氏郷は、陸奥国黒川を会津若松と変えた。若松は「故郷の地名」にちなんだもの。

山内一豊は、土佐国河中(後の高知)と名付けた。

加藤清正は、肥後隈本を熊本と変えた。

・ 信長が、「岐阜」や「安土」の命名において、旧来の「周辺の地名由来」の命名法を使うわけがないと著者は書いているが、激しく同意!私もそう思う。

# 岐阜の命名: 天下布武を唱えた信長は、「昔、中国の周王朝は岐山(ぎざん)という小さい町から始まって、ついには天下を統一した。それにちなんで岐阜と名付けた。」『阜』とは『丘』の意味なので、『岐山』と『岐阜』は同意語。

# 「中国ドラゴンズの論理」、面白いなぁ〜、目から鱗だ。

# 国譲りの神話
大国主命(オホクニヌシノミコト)は出雲国を平定した後、伯耆国因幡国の二カ国を平定、播磨国で「韓の皇子の天の日槍(アメノヒボコ)」を打ち破り、北陸地方から信濃国まで勢力をひろめた。
これに対して、皇室の祖先神の天照大神はこの国の統治権を渡すように大国主命にせまった。
ほほう、大国主命の子の「タケミナカタ」を祀ったのが諏訪大社か、なるほど。たしか、諏訪神社の領域は、昔の大和朝廷から隔絶された自治区域的な状態だったらしいが。

# 「持衰(じさい)」: これは「倭人伝」にでてくる、、いわば人身御供(スケープゴド)のこと。昔は、航海は命がけ。そのため、「持衰」をつくる。これは、公開中「体を洗ったり、服(福)を洗ったり」してはいけない。汚れ(悪運)をこの人に押しつけるわけだ。もし、無事に航海が済めば褒美をもらえるが、遭難や病人がでれば責任を問われて死罪になったそうだ。

邪馬台国が狗奴国(くなこく)との戦争に敗れたために、卑弥呼は責任をとらされて殺された?
※ 古代人の考え方では、「天災も飢饉も疫病も」すべて王者(支配者)の責任。この説を最初に唱えたのは、故・松本清張だそうだ。しかし、殺しの命令を出したのは、「張政」という人だそうだが、この張政は中国の「魏」の死者だそうだ。なんで中国の意志で?
※ 狗奴国: 三世紀に邪馬台国と対立していた倭人の国で南九州にあった。
※ 張政: 邪馬台国が狗奴国と紛争になった際、魏から派遣された役人。
卑弥呼は248年のおきた皆既日食の責任をとって殺された?天照大神の天の岩戸隠れの真実も皆既日食だったのか?

# 「ヒミコ」の「ヒミツ」
卑弥呼をモデルにしたのが天照大神といわれているが、それでは「卑弥呼」ってなんだ?著者も書いているが、王者は名前が前面にでることは無い。会社でも国家でも称号が前面にでる。たとえば「社長」や「首相」といったように。
つまり「卑弥呼」は「日御子」か、「日巫女」で「太陽(日)」に仕える女性のこと。そして、「卑」のような字面を与えたのは外国での書き方ではなかったか?
・ 著者は、またこういうことを書いている。「文明の国の魏から卑弥呼を激励しにやって来た張政も、日食が定期的に起こる天文現象だということは知っていただろう。しかし、それを教える必要は無い。原始人を繰るには、そういう情報を利用した方が有利である。」と。
これは、現代でも同じだなぁ。

# 石(こく)
・ 1石は1人の人間が1年(360日)に食べる米の量を基準としている単位。
・ 1反でとれる米の収穫量は1石。
・ 1反=300坪だが、東北地方では1反が300坪以上だったところもある。なお、1反が300坪になったのは太閤検地以降で、それまでは1反=360坪だった。つまり1年は360日だから、1坪は1人の人間1日分の米が獲れる広さ。
・ 1両は1石の米が買える金額。ただし後にはインフレで江戸時代後期では目安にならない。

# 戦闘員の動員能力は、1万石につき250人。

# 本能寺の変の夜は闇夜!↓↓
織田信長が殺されたのは天正10年(1582年)6月1日の夜。太陰暦は月の満ち欠けに合わせた暦なので、1日・2日は「月がほとんどかけた状態」。そして3日は少し見える。これを「三日月」という。そして15日には満月となる(十五夜)。従って、月の満ち欠けを基準とした30日を「月(がつ)」といい、日(太陽)の出入りを基準とした24時間を「日(ひ)」という。合わせて「月日(がっぴ)。

★ 逆説の日本史 2 古代怨霊編 - 聖徳太子の称号の謎 より

# 飛鳥時代以後、つまり聖徳太子以降を言う。これ以前は文献がはっきりしていないので今後事実関係に大きな変化がある場合があるが、これ以降は文献などがはっきりしてある程度確定している。

# 聖徳太子は古代のキーポイントの人物。
・ 聖徳太子の墓は、大阪府河内郡太子町にある叡福寺にある。このあたりには、聖徳太子の父の用明天皇の陵や、叔母の推古天皇の陵もある。
聖徳太子の墓は現在、「皇族の墓」として宮内庁の管理下にあるそうだが、皇室は原則神道だから、お寺の中に神道の墓があるということになるのか。
そもそも、聖徳太子は天皇家の歴史のなかでも熱心な仏教徒だったとか。

聖徳太子はなぜ聖徳太子か?
それはあまりにも偉大な人だったから。それは誤解と著者は言っている。
本名は厩戸皇子(うまやどのみこ)で母は穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとのひめみこ)。
聖徳太子と呼ばれたのは死後のこと。
聖徳太子の第一夫人は、橘妃と言われた橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)。
しかし、聖徳太子の棺の脇に祀られているのは、第一夫人では無く膳部(かしわで)夫人。

# 聖徳太子が子供の頃、蘇我氏物部氏の崇仏(すぶつ)戦争がおきた。これは、朝鮮半島から伝来した仏教を受け入れるか否かの争いがきっかけで。聖徳太子は蘇我氏に味方した受け入れ推進派だった。

聖徳太子はどうして天皇になれなかったのか?
用明天皇の第二子だったから?じゃ第一子はだれだ?
・ 一説には、叔母の推古天皇が長生きして、聖徳太子の方が先に死んだという理由。
聖徳太子: 574年2月7日〜622年4月8日
推古天皇: 554年〜628年4月15日

# 聖徳太子は平和主義者ではなかった、と著者は書いているが、その解釈はどうなのだろう?
この時代は、今とは異なり、生きていくために、そして権力を保持するために「戦い」は避けて通れない日常だったのではないだろうか?おまけに、先祖の遺訓をもとに朝鮮に出兵しようとしたことをもって好戦的という評価を下していいものか、やや疑問である。

# 聖徳太子は朝鮮半島に出兵して、新羅(しらぎ)から「内官家(うちつみやけ)」を取り戻そうとした。内官家とは、「任那(みまな)または「伽耶(かや)」といい、日本の天皇家の「故郷?の土地」。
この土地を取り返すことは、天皇家の宿願で代々遺言として伝えたそうだ。
それは、日本書紀に「571年に崩御した(29)欽明天皇が、死の床で皇太子(後の敏達天皇)に言った」という記録が残っている。
この(30)敏達天皇の妹が(33)推古天皇で弟が(31)用明天皇敏達天皇推古天皇は異母兄妹で、この時代異兄妹の結婚はタブーではなかったみたい。
(32)崇竣天皇の時代に2万の軍勢を筑紫に結集させたが海を渡ることはなかった。それは崇竣天皇が暗殺されたから。そのとき、どうして聖徳太子がいながら、女性の推古天皇ができたのか?当時聖徳太子は19才だったから年のせいでは無い。
当時は長子相続制では無い。
推古天皇の即位の翌年、聖徳太子摂政(今の総理大臣)として正式に皇太子となった。
※ たしかに、謎だね。

# 602年(摂政になった10年後)に聖徳太子は実弟の来目(くめ)皇子を総大将として、2万5千の新羅の討伐軍を出す。しかし、またもや筑紫で来目皇子が急死したため、遠征は取りやめとなった。
次に当麻(たいま)皇子を将軍に任じたが、今度は当麻皇子の妻が亡くなった。

# ここで、面白いことが書いてある。
「新羅」はどうして「シラギ」と読むのか。自然に読めば「シンラ」だし、実際「シンラ」と読む文献もあるそうだ。それについては、「日本書紀の編集については百済人の学者が多数参加し、彼らが故国を滅ぼした新羅に対する恨みから、新羅をシラギと読ませた」ということだ。ちなみに、「シラギ」とは「新羅のやつら」の意味で、「ジャパニーズ」に対する「ジャップ」のようなもの。と、筆者は書いている。

# 607年に聖徳太子は中国を統一した隋に小野妹子を派遣した。しかし、問題は太子が書いた国書で、大国の隋に対して、ため口の文章を書いたのである。

# 中大兄皇子は中臣鎌足とともに蘇我入鹿を倒した。これが、大化改新。中大兄皇子は、その後天智天皇となった。中大兄皇子は、朝鮮半島に軍事介入して、唐と新羅の連合軍と戦おうとした。目的は百済復興。661年のことだった。
朝鮮半島が大国の支配下に入った時、日本は危機を迎える。13世紀の元のように。
同様に、中大兄皇子は、唐が朝鮮半島を支配したら日本は危機に陥ると考えた。
国内においては、防衛用の城をつくり、都を内陸の近江に移した。
日本、百済連合軍は663年に白村江の戦いで、と、新羅連合軍に大敗した。

# 都を奈良から京都に遷都したのは桓武天皇
中国に強力な国家ができると、必ず周辺諸国を侵略しだす。
隋は高句麗を攻め→敗退
唐も新羅と手をむすんで、朝鮮半島に進出しようとしたが、結局手を結んだ新羅に追い出された。
聖武天皇はなぜ、奈良の大仏を作ったのか?

★ 逆説の日本史3 古代言霊編 - 平安建都と万葉集の謎 より

# 日本三大悪人: 弓削道鏡平将門足利尊氏
・ 弓削道鏡: 臣下でありながら天皇の地位をねらった。
・ 平将門: 朝廷に反逆した。
・ 足利尊氏: 後醍醐天皇に反逆した。
※ 余談だが、皇位継承権について。よく、歴史上「女性の天皇」はいたが、女性の天皇の系統の天皇はいないので、天皇の系統は男子に限るという話がある。
「逆説の日本史3」の12頁を見ると、
・ 天皇の血筋でない、「皇后」や「皇太子妃」が天皇になった歴史がある。代表的なのが「元明女帝」なのかな?
・ 日本の女帝は、元明天皇までは「皇后」または「皇太子妃」であった人だけで、未婚の天皇は一人もいないが、次の元正天皇からは、未婚でなければ女子は天皇になれないという習慣ができた。これは成文法では無いが、法で定められたのと同じように厳守されてきた。
ということは、女系の天皇は不可という以前に、女性天皇には事実上継嗣ができないというルール(未婚)によって実態として生じたことのようですね。

# 安禄山の乱: 唐の皇帝玄宗が楊貴妃を寵愛して政治をないがしろにしたため世が乱れておきた乱。首都長安が陥落。

# 女帝が寵愛した二人の男、「弓削道鏡」と「吉備真備(きびのまきび)」。この二人の名前を一字ずつとる。「道」と「真」→それを合体すると「道真」だぁ。なるほど、偶然の一致にしろこれは面白いなぁ。
吉備真備」と「菅原道真」は、「皇族でも藤原氏でもないのに、学問の能力だけで右大臣まで上り詰めた」。

# 昔、神社に祀ったというのは、尊敬して祀ったわけではなく、その怨霊を鎮めるために祀った。その代表が、大国主命の「出雲大社」と、菅原道真の「太宰府天満宮」。

# 平安時代の国家の財政は窮乏した。そのために軍隊も廃止した。その結果、治安は悪化した。なぜ財政が窮乏したのか?筆者は、その原因を「荘園」のせいだとしている。
・ 荘園とは何か?簡単にいうと「免税の私有地」だそうだ。荘園の本来の意味は(公家の)別荘の庭園という意味らしい。つまり、「田畑でなく庭園だから、税を払う必要は無い」という解釈のようだ。今でもあるなぁ、ある種の特権の人たちに対する「非課税」というシステムが。

# 大和朝廷のシステムは徳川幕府と同じような地方分権のようなもので、豪族(王)といわれる国の連合体であった。

# 藤原氏の氏神の春日大社の神紋は「下がり藤紋」 

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