「中川」の名字の由来 | |
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■ 中川(なかがわ)
【2023/07/11:改編】
# 50位
# 第49位 約29万人【明治安田生命ランキング2008】
# 第47位 約31万人【明治安田生命ランキング2013】
# 第48位 約30万人【明治安田生命ランキング2018】
# 50位【出典】
# 代表家紋
# 「中央の川」という地形由来の地名でそれが姓となった。
# 北陸地方から関西地方にかけて多く見られ、その他に滋賀県や徳島県にも多く見られる。【出典】
# 方位姓。川が複数流れていると、中央の川を中川といった。こういう場所は各地にみられ、ルーツ地も全国各地に見られるが、とくに北陸地方から関西地方にかけて多く見られる。【出典】
# 最も多いのが滋賀県の6位、次いで石川県の7位。【出典】
# 豊後国岡藩の藩主を務めた中川氏は、戦国時代には摂津国の茨木城(大阪府)の城主だった。先祖は清和源氏の源頼光という。【出典】
# 摂津国島下郡の国衆。清和源氏頼光流という。建武年間に清深が摂津国豊島郡中川村(大阪市生野区)に住んで中川氏を称した。八代後の清村の嫡男の清照が桂川で討ち死にしたため、高山重利の次男の重清を養子として、その子が清秀であるという。なお、名字の由来の地は、摂津国島下郡中河原村(大阪府茨木市)、または摂津国豊島郡中川原村(大阪府池田市中川原)ともいわれる。戦国時代には、摂津国島下郡の茨木城(茨木市)城主で、清秀は池田勝正に属していた。のちに、織田信長に仕えて荒木村重に従い、4万石を領した。その子の秀政は豊臣秀吉に仕えて播磨国の三木城に拠って、文禄3年(1594年)に豊後国岡7万石に転じた。文禄の役には出陣したが、鷹狩りの際に敵兵に囲まれて討ち死にした。秀政の弟の秀成は関ヶ原の合戦では東軍に属して、豊後国の岡藩主になった。【出典】
# 中川清秀の家紋。
# 戦国時代末期の中川清秀は多田源氏の出。荒木村重に従っていたが、村重の反旗に組せず、茨木城12万石を経て、息子の秀政は信長の娘婿となった。
# 江戸時代、豊後岡藩の藩主をつとめた仲川氏は、戦国時代には摂津国の茨木城(大阪府)の城主だった。先祖は、清和源氏の源頼光という。織田信長に仕えた中川清秀が頭角をあらわして、子の秀政は豊臣秀吉に仕えて、豊後岡で7万石を領した。秀政は朝鮮出兵で死去したが、子孫は江戸時代になっても引き続き岡藩を治めた。【出典】
# 茶道の千家に出入りを許された千家十職の一つに、金物師の仲川氏があった。越後国の出で、初代の紹益は天正年間に京都に出て、茶道具を作り始めた。【出典】
# 新潟県の中川家
# 富山県の中川家
# 石川県の中川家
# 静岡県の中川家
# 京都府の中川家
# 兵庫県の中川家
# 大分県の中川家
# 政治家の中川一郎は北海道広尾町の出身。中川家の中川兄弟は大阪府守口市の出身。
【一個人 2013年12月号】
# 中川(49位)
・ 北陸地方から近畿地方や山陽地方から四国地方にかけて多く、特に滋賀県に多い。
# 「中川」の地名
# 岡藩
# 「川」のつく名字。
# 「中」のつく名字。
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