「肝付」の名字の由来
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■ 肝付(きもつき、きみつき)

【2023/10/24:改編】

# 鹿児島県の名字

# 大隅国肝付郡の国衆伴姓。伴兼行が薩摩国鹿児島郡神食村(鹿児島市伊敷町)に住んで、兼貞は平季基の婿になって島津荘の荘官を務めた。長元9年(1036年)に兼俊のときに大隅国肝属郡の弁済使となって、肝付郡に大きな勢力を持った。鎌倉時代には御家人でなかったため、北条一族の地頭名越氏に圧迫されたが、南北朝時代には兼重が九州南部の南朝方として活躍した。室町時代には大隅国の有力国人に成長。兼続は高山城に拠って大隅国の南部から日向国の南部まで勢力を広げた。しかし、永禄9年(1566年)に島津氏に高山城を落とされて兼続が自刃して、以後は衰退した。天正2年(1574年)に島津氏に降って、天正8年には兼護が十八代にわたって支配した大隅国から、薩摩国阿多郡阿多村(鹿児島県南さつま市)に移された。【出典

# 鹿児島県の肝付家: 薩摩藩の重臣で、大隅国戦国大名末裔。伴姓。【出典

# 声優の肝付(きもつき)兼太(2016年10月20日没)は鹿児島県鹿児島市喜入町の出身。

# 肝付氏: 大隅国肝属郡の土着豪族であった。かれらは、十世紀後半に薩摩掾を務めた伴兼行(とものかねゆき)の子孫である。肝付氏は島津氏によって、薩摩国喜入に移された。【出典

# 肝付家(きもつきけ): 家紋「対い鶴紋

・ 大隅国肝属郡高山(鹿児島県肝付町)を本拠地とした。

・ 古代豪族の伴(とも)氏の末裔で、大隅国肝付郡に住んで肝付氏を称した。【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】

# 国衆(国人)

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