山形の古地図を読む
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■ 古地図と言っても、手元にあるのは「塔文社」発行の「昭和24年、38年の山形市と昭和14年の山形県」という地図帳なので、それから拾います。

■ 昭和24年の山形市の地図より

# 縮尺は七千四百分之一
# この当時の馬見ヶ崎川にかかる橋で地図に載っているのは、「馬見ヶ崎橋」「二口橋」「千歳橋」。
# 二口橋の吉田カメラのあるところは昔は「塵芥焼却場」だったんだ、でもこれは私でも記憶にあるな。その北側は「採石場」となっている。
# 二口橋の袂から西に下る道路は、「銅町新道」と言い、両所宮前で途切れている。従って、そこから奥羽線を越えて北町のヤマケン前を通って下条口に至る道路はなかったんだね。この道路ができたのはたぶん昭和38年頃だと思う。
# 北山形駅東側の慈光寺の東向かいには「ハッピーミシン会社」の記載がある。ハッピーミシンって、この当時からあったんだねぇ。
# 二口橋から馬見ヶ崎川沿いに薬師公園方面に行くと、「屠場」の表示があり「県営運動場」の表示がある。護国神社の北側にある、今の「市営グラウンド」ですね。
# 馬見ヶ崎橋のたもとには「バス待合所」の表示と「消防所」の表示が。本所かはわかりませんが、ここに消防署あったんだねぇ。
# 馬見ヶ崎橋をわたると、目立った施設はなし。しいて言えば、「鈴川小学校」があり、「双月」「上山家」「印役」「山寺街道」の表示があるくらいかな。
# 馬見ヶ崎から、今の消防署の本署方面に伸びる道路。桜並木で有名ですが、この道路の馬見ヶ崎川側は「埋め立て地」の表示。ここは昔河原だったのを埋め立てたのかな?それとも、江戸初期に馬見ヶ崎川を付け替えた時の河道を埋め立てたという意味だろうか?
# 馬見ヶ崎橋から西に下ると、「山形第三高等学校」と「山形第一高等学校同夜間部」の表示。三高は工業で、一高は東高でしょうね。
# 一高や三高に隣接して、「警察教習所」や「工業試験所」の表示が。
# 薬師町通りや新築西通りは当時からあったようですね。新築西通りぞいには税務署もあるね。
# 今の五中のあたりは「市民綜合運動場」だ。
# 今の文翔館は、もちろん「縣庁」だし西側には「県會議事堂」。今、湯殿山神社があるところは警察署となっている。文翔館の東側にあった警察署は知っているが、当時はここにあったんだ。警察署の隣には「職業安定所」と「教育委員会事務局」がある。ちなみに、湯殿山神社は、昔は市役所の西側にあって、周辺は雁島公園っていったんだ。その記載もあるな。市役所の改築で湯殿山神社は今のところに移転。そういえば、旧市役所の北側には「商工会議所」があったんだ。後に「三浦記念会館」として、今の場所に移転。記憶をたどれば、旧市役所の南側の、今の駐車場ビルがあるところは消防署だったんだが、ここには「貯蓄銀行」と「大映劇場」の表示が。この辺には「日銀の事務所」もあったと記憶しているが「貯蓄銀行」と「日銀」は別物か?
# 今の県民会館は「相談所」ってなってる。山銀本店は「両羽銀行」で、その東側に「勧業銀行」がある。
# この辺には「テアトル」「紅花劇場」「旭座」と映画館がある。
# それから、両羽銀行から下った所には「富士銀行」。今のワシントンホテル付近は「山形新聞社」の表示が。七日町の大通り沿いには目立った建物は無い。大沼デパートの所は「糸組合」だし、その東向かいは「C・I・C」の表示が。「C・I・C」ってなんだ?
# さて、今度は旧県庁前から西を見てみよう。裁判所は当時からここにあって、西に下ると四小があるだけ。昭和橋の表示はないなぁ。当時のメインは、旧高陽堂書店前から西に下り神明神社から肴町に至るいわゆる「小橋(こばし)通り」がメインのようですね。しかし、奥羽線の西側で当時から開けていたのは、今の城北から肴町、下条にいたる界隈のようですね。七小や城北高等学校の表示や、生糸検査所があるくらいかなぁ。もちろん、龍門寺はありますけどね。
# さて、またまた旧県庁にもどって今度は東の方に行ってみましょう。旧県庁から東進すると三島神社前の三島通りがあって、突きあたりが山形大学教育学部があります。今の北高ですね。そこから左折して北進すると、今は法務局とかがありますが、当時は「検察庁」や「保険庁」の表示がみられます。
# 今度は、また七日町の通りに戻りましょう。
# 現在の大沼デパートから南進すると、グランドホテルの場所には荘内銀行がそして電気会社(東北電力)があり、山形中央郵便局の前には「山形民事部」の表示が。そして、現在の山形銀行十日町支店の西向いには「山形殖産無尽會社」の表示が。現在のきらやか銀行の前身の殖産銀行のことか?
# あらら、十日町の角に着いちゃいました。このように、七日町の大通りには目立った施設がなかったようです。
# 次は、十日町角から右折して山形駅方面に行きましょう。
# 現在の第二公園の前には「千歳座」という映画館が。その向かいには、山形交通會社の表示が。そしてその先に右手には穀物検査所があり、現在の山交ビルの所は専売局があります。この場所は、山形交通の車庫があったと記憶しているが、それができたのは後の話なのか?その先の左手は青物市場となっているほか目立った施設はなく山形駅に行き当たる。山形駅前にはロータリーや交番があるほか、現在立体駐車場になっている付近は、(鉄道の)管理部と鉄道病院、そして駅に西側には鉄興社があり周辺の地名は「六十里越」や「稲荷塚」となっている。当時は住宅も無く田んぼや桑畑の表示があるだけ。
# 現在の城南陸橋の通りはありますが、当時は踏切のようで、そこから西に飯塚街道が延びています。
# 現在の霞城公園。当時はどうなっているかと言えば、「新生寮」「山形球場」「電話局」「山形第三中学校」「山形第二中学校」の表示が見られます。
# 城南陸橋東側の篠田病院などはまだ無い。桜町のNHKも無く(後に山形市消防本部の所から移転してきた)、その東向かいに山形第五高等学校の表示が。五高って今のなんだ?
# 現在の大手町通りを北進すると右手に教育会館、左手に至誠堂病院が。至誠堂って古いんだねぇ。今は移転した霞城公園の東大手門の左手にあった山形県立中央病院は当時は国立病院となっている。そしてその北向かいの市営駐車場周辺は刑務所。
# 今度は、現在の山形メディアタワーの前に戻って栄町通りを南進します。今の山形市立病院済生館のところは済生館伝染病院の表示。その先には第一小学校があり、向かいのNTTがある所は市立女子商業高等学校が。へぇ、今の山商って昔は女子高だったんだ。そして、現在の山形市民会館の所は師範学校女子部、師範附属新制中学の表示が。ここは後に山形大学教育学部附属中学校になり、昭和44年頃に今の松波に移転した。今の保健所があるところは幼稚園と女子附属小学校となっていますね。ここも後に山形大学教育学部附属小学校になり、昭和44年頃に今の松波に移転しています。
# 次は十日町の現在のホテルキャッスルの前から南進します。でもな〜んもないですね。
# 第六小学校があり、その南側に労働基準局があります。六小の前の道路は「改修国道」の表示になっています。六小の東側には農事試験場や市営火葬場、そして今の市営図書館の所は市立商業高等学校となっています。六小の西側には今の西高である山形第四高等学校があるだけ。
# 現在の奥羽線の五日町踏切を越えて西側にいくと上町を経由して上山方面と狐越街道が延びています。
# 最後は現在の山形大学周辺を見てみます。山形大学文理学部の西側には第五小学校があります。山形大学文理学部から南進すると、養蚕試験場や市営住宅があり、現在の南高である山形第二高等学校があります。
# 山形大学文理学部の北側には経済調査庁、第一中学校、第六高等学校、そして山形貯金支局がみられます。
# こんなところでしょうか。

■ 昭和38年の山形市の地図より

# 縮尺10000分の1。
# この地図は羽前千歳駅周辺から始まります。
# 羽前千歳駅付近には千歳篠田病院と青物市場があります。地名としては「大字」として、「長町」がみられ小字として、「東浦」「西浦」が見られます。羽前千歳駅の東側には千歳小学校がみられ、周辺の地名は北河原となっています。
# 千歳駅前に戻って旧国道13号線を南下すると、明屋敷や中原の地名がみられ、奥羽線をくぐって千歳橋に至ります。
# まずは、千歳橋を渡らずに今の東小の方に行ってみます。まずは、東小の場所は以前は四中ですね。その前を通って二口橋の袂にでると、太陽自動車学校やラジオ山形発信所が見られます。この当時は花楯の通りはまだありません。
# 馬見ケ崎橋は存在し、山寺街道が大野目方面に伸びている他、沼の辺に至る道も見られます。鈴川小学校もみられるね。
# 地名としては現在もみられる、「落合」「大野目」「青野」「高原」「鷺森」「浜田」「山家」「下山家」「印役」「和合」「双月」などがある他、「花立」の地名がみられ、現在の花楯と思われる。

【現在編集中】

■ 記憶の中の古地図

 私の記憶の中の山形市の古地図は昭和30年代の山形市錦町に始まる。今は錦町というが当時は小橋って言っていたと思う。当時は四小に通う小学生。同級生の遊び友達の家の記憶、今も残っているぞ。個人名はあげないが、某店舗経営のA君、商売をやっていたB君とC君。商売をやっている家は倉庫なんかがあって、その倉庫の中で遊んだ記憶もある。
 遊びの専らの舞台は神明神社。記憶では、神社の裏(北側)には川が流れていたような。そして、神社の右手には駄菓子屋があって、よく通ったのを記憶している。今は駄菓子屋っていうが、当時は一銭店屋(いっせんみせや)って言っていたような気がする。
神明神社以外の遊び場と言えば、近くのお寺の記憶がある。現在の地図で調べると松岩寺みたいだねぇ。今は、お寺でなんか遊んでいると怒られるんだろうけど、当時は三丁目の夕日の世界ですから。
 お寺の近くには内科医院があったような気がする。沼沢医院っ言ったかなぁ。現在、表通りに沼澤歯科医院ってのがあるが、関係あるのかな?
 この一帯、今と何が違うかと言うと、県道22号線の2つのクランクだよなぁ。今の富田歯科医院の所と蕎麦屋の羽前屋の所だねぇ。羽前屋の南側には銭湯があって、借家住まいだったので、よく来たもんだ。そうそう、今の沼田建設山形支社の辺りに、内科か外科の医院があったような気がするなぁ。
 四小の学区は遠くは七日町の花小路付近までだったので、結構そっちの方まで遊びに行った記憶もある。たしか、今の明石医院から少し東に行った所には、家具屋のオビジョウがあったんじゃないかなぁ。この記憶はちょと曖昧だが、近くに友達の家があったので、この辺から昔の市役所の裏にあった雁島公園のあたりも遊び場のひとつだった。そうそう、その友達の家はなんかの店?をやっていたので、三輪車があった。三輪車って、幼児が乗るそれじゃないですよ。正確に言えばオート三輪か?当時はメーカーなんかわからなかったが、今調べるとダイハツなのかな。
 このように小学校低学年の記憶は四小を中心にあるのだが、時は昭和39年、まさに東京オリンピックの年に、掘っ建て小屋ながらも両親が家を建てたので、それによって四小から七小に転校し、今度は七小を中心とした記憶の中の古地図が出来上がっていく。【続く】
   
そうそう、掘っ建て小屋で思い出した。掘っ建て小屋と言うと、あばら屋的なイメージがあったが、これは古代の建築様式を意味するようだ。現在はコンクリートの基礎の上に木の柱を組んで建物を建てるが、昔は木の柱を直接土中に挿しこんで建物を建てたそうだ。これを掘っ建て小屋というらしい。考えてみても解るでしょうが、この建て方だと柱が腐り易いですよね。その結果、短期間で建て直しが必要となる。ここまで読んで、ピンときませんか?丁度平成25年だし。答えは伊勢神宮の20年に一度の式年遷宮。もちろん、これは宗教的意味合いが主体なんでしょうが、まさに伊勢神宮の建築様式が掘っ建て小屋だから、定期的な建て替えが必要なのだそうだ。って、書いてある本があった。

 さて、話を戻すが、四小から七小に転校したが、小学生も高学年になると行動範囲も拡がるし、記憶も残っている。今の小学生はどうかはわからないが、当時は学校で映画鑑賞会なるものがあった。記憶にあるのは「メリーポピンズ」と「百一匹わんちゃん大行進」で、場所は大沼デパートの中にあった映画館。昔、大沼デパートの北側に地下に降りる階段があり、そこを降りると映画館があったのだ。そして、裏にあった済生館は昔の木造洋風建築で、今の霞城公園にあるやつだった。
 映画館と言えば、今のセブンプラザは当時は「丸久デパート」で、その脇に「宝塚小劇場」があり、中学から高校に掛けて何度か行った覚えがある。記憶にるのは「カトリーヌ・ドヌーブ」の「シェルブールの雨傘」。また、山形銀行本店のはす向かいには、「梅月堂」という御菓子屋があり、その北向かいには「大映」の映画館があった。ここにはよく行ったなぁ。「怪獣ガメラ」に「大魔神」なんかだったな。

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